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下流萌えと破廉恥

中国低層訪談録―インタビューどん底の世界中国低層訪談録―インタビューどん底の世界
(2008/05)
廖 亦武

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 我がブログにやっと公開可のコメントが付いたと思い悦んだのだが、微妙に意味不明です。ウ~ン……。ドリマックスさん、ありがとう。そして、私は、少しわびしくなりました。

『中国低層訪談録』(寥イ武著 劉燕子訳 集広舎発行 中国書店発売)が、凄まじい。現代中国の桁外れの「低層」の実体を、インタビュー形式で記述していく。生々しい彼らの言葉は、強烈なまでに饒舌で、そして時に詩情豊かである。序で竹内実が著者の寥を老子に准えていたが、私はロシアのチェーホフを思い起こした。『無産大衆真髄』(河出書房新社)の矢部史郎と山の手緑さん、日中の無産者の「格」の違いが、あるぞなめなし(批判しているのではありません)。

 日本の「下流社会」「格差社会」が、中国のそれと次元が違うことをもって、「もっと貧しい人がいるんだから、我慢しなさい」と言っても、言う人の自意識を満足させるだけで、当人たちには全く効果がない。相対的貧困(知覚できる人、例えば同じ国民とか隣人に買えるものが私には買えない悔しさ等々)が、当人たちに不幸感情をもたらすのであって、絶対的な貧困は、感情ではなく生存の問題になり、不幸どころではなくなる。皆がそうであるならまだしも「何で自分だけ」となった時、哀しいかな人間は、壊れてしまう。「我慢」強制は、政治家が国民的歓心を得るくらいにしか効果はないし(しかし、これは大きい)、場合によっては当人たちを更に追い詰め、犯罪を誘発しさえする(これが、もっとも罪深い)。

 下流でも低層でもどちらでもいいが、インテリや左派、宗教者は、よく彼らを問題にする。肴にする。下流萌え萌えになる。そうなるには、ホントに大小様々、いろいろ理由はあるんだけど、もっとも「大義」に満ちている理由は大きく分けて「可哀想」と「変革の担い手」の二つだと思う。以前から左派界隈で流行っている「マルチチュード」も後者に属する。まあ、これに関しては「無理だろ……」とか「いいね……」くらいしか私は言えない。

 とはいえ、階級的にルンペンプロレタリア層に属するフリーのライターである私にだって、ちょっぴり(or相当)異和感を憶えるくらいの感性はある。なんだろうな、とゴモゴモしてしまうのが嫌だったんだけど、前掲『低層』において、著者の寥は、「低層」とは「ディスクールの権利が奪われ、社会に忘れられ、うち捨てられた存在で、一生にわたり生存の問題に対処しても常に生存の危機に直面する人たち」と定義し、こう書いている。

「『低層』(本のこと・注)は、自分を欺き人におもねる恥知らずな歌ではない。顔と顔をつきあわせた対話だ。でも、血なまぐさくて、きりがない苦難と恥辱のもとで、ぼくらは破廉恥な「奴才」(奴隷根性が強く人に追従し悪事の手先にさえなる者への罵倒語)を頼りに、なんとか行きぬいてきた。ギリギリのところで、ゴキブリのように元気であわただしい日常生活を送っている。だから、破廉恥は「低層」を解読する最も的確なキーワードだ。
 残念ながらごく少数の(中略)他は、ほとんど「低層」の至るところにある苦難、残忍、麻痺の中に破廉恥を読みとってもらえない。「低層」は、この時代にあって、文学を光り輝かせるのではなく、ただ恥をかかせるだけだ」

 そう「破廉恥」、破廉恥なのである。私にとっても破廉恥な人々(私が接したり、取材したりしている人々)が、「可哀想」や「変革の担い手」に一足飛びに結びつかないわけだ。インテリや左派、宗教者の少なからない連中が、寥の言うように「破廉恥」というキーワードを無視し、理解していない。だから、しっくりこない。

 こんな破廉恥な人々を多数収録した『低層』を指して、寥の言うように後世「どんなことになろうとも、私たちは、こんなおめおめと無為に生をむさぼる人間よりもましだ」と言われようとも、その破廉恥さが「低層」の人々の唯一の存在価値(もちろん善悪のことではありません)なのであることには変わりはない。逆に言えば、破廉恥というキーワードを抜きに、「低層」を解釈して「可哀想」とか「変革の担い手」などと言っても、屁のつっぱり、オーマイガッ! ってほどに誤解してしまうわけだ。それは、「低層」の人々を真に見ていないことは、もはや言うまでもない。

 そうなのだ、破廉恥。破廉恥なのだ。私は『ヤクザ的な人々に学ぶ、負け知らずのススメ』において、様々な理由において「低層」に追いやられる人々は、自殺するくらいなら、破廉恥になろう、破廉恥になるしかない、ってことを言いたかったのだぁ!(決して後付け解釈ではありません)

 考えてみれば、私は、年を経るにつれ、どんどん破廉恥になっていった。子供時分は、「おめかししないと、お外に行けませんッ」と母をいつも泣かせてばかりいた私が、いまや、そんな母とパートナーを連れ、紳士服のコナカで「一番高い喪服をください」と、母の財布を当てにして、「ACですから」と破廉恥にも言い放つほどに、破廉恥さのみを成長させてきたのである。  

 破廉恥、はれんち、ハレンチ……。いい言葉である。ああ、破廉恥。破廉恥くん、ありがとう。今の私は、インテリや左派、宗教者とは違う次元と高い位相において、「下流萌え」ならぬ「破廉恥萌え」に心を震わせている……(決して真に受けないでください)。




 
    

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『貧乏人の逆襲』

 最近出た「実用書」(!?)の紹介です。

 松本哉著『貧乏人の逆襲!―タダで生きる方法 』(筑摩書房) (アマゾンの貼り付け方分かりません)

 松本君は、学生時代からの知り合いなんだけど(というか、いろいろあったなぁ)、この人、ホントに可笑しい人だった。左翼とかイデオロギーとかそんなの無縁で、でもとっても反体制なことを面白おかしくポンポンやってしまう人ですね。当時から松本君のセンスには敵わないなぁと思っていたけど、大学を出た後も、選挙出たり(当選する気なし)、店バンバン出したり(儲けるつもりなし)、本もこれからどんどん出すそうで(売れたら問題!?)、おそらくこういう人をホントの運動家であり都会人というべきなんだろうなと思っていた。一緒に早稲田7・31で花火打ち込んだこと、思い出しました。

 欧米先進諸国のように、今後の日本も、人口の一割が松本君たちのような「オルタナティブ」層になるのかどうか分からないけど、着実に、一歩一歩彼らの運動が広がってきていることは間違いない。この十数年、彼らを傍から見ている私にとっては「すっげぇ~」、のひと言です。

 後期近代における資本主義社会が、そこに住む多くの人間にとって厳しさをいや増しに増すのであれば、社会全体が変わらないまでも、局所的には何らかの手は打っていかないといけない。そんなこんなを、難しく考えこじれてしまい、内ゲバやったりして周りに迷惑をかけてしまうのではなく、自分(たち)勝手に楽しんじゃう方法をさらりと編み出す松本君は、やっぱり変人なんですねぇ。

 私自身は、もうちょっと違う位相でマーケットや権力とダンスを踊りたいので(遊んでいるのではありません)、完全に彼らと同じ場所に立てないんだけれど、できることはこっそり応援したいと思っている。

 読んでみると、分かります。とにかく笑えることやってます、彼は。どうやったらたった3人だけのデモ(がただ歩くだけ。公安などの警察数十人から「何か訴えろよ!」と言われても無視)なんか思いつくのよ、と思ってしまう。

 それに、ただ面白いことやってるだけに見えるかもしれないけど、松本君はとっても倫理的な人だと思いますよ。それがないと、こっち方面のこんなセンスは生まれないし、あっちの実践活動は育たない(なに言ってるんだか)。

 ともかく、良書です。いろいろ疲れてしまったら、読んでみることお薦めします。「そうは行かないんだよ!」と思ってしまうこと必至ですから。「でも、うまくいってるよ」と松本君は嫌味なく頭掻きながら答えることでしょう。必読です。







党結成か!?

 組織と個人の関係について、青臭い頭で、学生時代いろいろ考えていた。結局、深い深い哲学的思考の果てに、私は個人の「人格の全面開花」(!?)を為す組織は、今のこの世には存在しない、との結論を得て今のフリーランスの立場に落ち着いた(ウソです。面倒臭かったから就職活動しなかっただけです……)。

 そんな私が、ついさっき「だめ連」のペペ長谷川さんと「党」や「結社」、組織について話し合ってしまった(なんと!)。まあ、ここに記すまでもないことをウダウダ喋っただけなんだけど、今の時代、強い個人(or強く育てられただけの人)じゃないと、なかなかそれなりにも生きていくことができない、ということを認めざるをえなくなった。戦後日本の左翼が考えてきた「緩やかな連帯」jは、未だに困難極まりないということの確認だった。

 昨日バーで、2年ぶりくらいに再会した某週刊誌編集者I君が、「組織の歯車でいる生き方」について喋っていた。私が知る中で、彼ほど自意識の(異様に!)高い若者はいないのだが、その彼が諦観する人間像は、少々私とは意見が相違するところではあるが、もっとじっくり話してみたいと思った。

「どこかで折り合いをつける」人生ができる人もいれば、できない人もいる。パートナーも金も何もない人生に折り合いをつけることができない、というより、そのことに人は耐えることができないという現実もまた、認めなければならない。

 自己責任論と社会の責任論の葛藤は、その語る人の立場を超えて議論することはなかなか難しい。だが、会社内人間関係や地域社会といった人的繋がりが崩壊し、あるいは旧左翼、及び革マル派などの新左翼諸党派などが最終的に瓦解していく中、「党」でも「結社」でもない、新しい言葉で語られる人と人との繋がりの暗中模索こそが、自他の責任論といういつ果てることのない不毛な論争を止揚することだろう。

 なぁんてヌルいこと言いながら、実は私、自分ひとり得する組織が欲しかったりするんですけどォ! 独裁者になりたくても誰からも支持されない私は、「一人一党」でいるより他ないね(なんか右翼みたい)。

 それはともかく、話は変わるが、あまりブログの訪問者が増えない。理由は簡単、面白くないからなんだろうけど、やっぱりエッチなものや実用的なものがないからなんだろうね。エロはともかく、生活に密着したことなど、今まで考えてこなかったなぁと最近感じ入ってます。 

 ですので、今後このブログは、日常の生活の知恵を皆様にご提供していく方針であります! (無理だろ!)





東京の村人、東京の都会人、東京の叔父さん

 東京には村人がたくさん住んでいる。田舎から上京してきた人たちのこと(だけ)ではない。東京育ち東京生まれの人たち(近辺の都会と言われる街も含む)が、である。そのことにうっすら気づいたのは、大学に入って間もなくの頃だった。

 東京に、北九州から上京したての自分と違わない一面を発見したからかもしれないし、自分が嫌だなと思っていたはずの共同体(に必ずある、排外において初めて生まれる連帯感)の匂いに共感したからかもしれない。それは嫌悪を超える嫌悪と驚きだった。

 秋葉原が生んだ「世界の」村上隆が、「子どもの国」日本の都会の象徴の一断面であることは、おそらく間違いはない。彼が本当の意味での「東京の都会人」であるかどうかは、現代アートに疎い私には皆目分からないのだが、私が今まで東京の都会人に出会ったことがないということは、どうやらそういうことであるように思う。

 東京の都会人を、東京の人(と考えている人)は、例えば坪内祐三あたりを考えるのかもしれないが、その坪内信者のとある大手出版編集者に私は嫌われるという一幕があった(私が「コネ入社なの?」とからかったからだと思う)。坪内祐三は、ウザイ相手と酒場で会った時、しつこく話しかけるその相手に「私はあなたのことが好きではありません」と言い、まことに見事に距離を取ったというが(距離を取られたそのウザイ当人から聞いた)、そのような芸当は、やはり私にはできそうにないと思った(現にそのウザイ人に出来なかった)。素直に凄い技と気合だなと感じ入った。

 東京の人と、田舎の人の、「どこにも行くところがない」と思う感慨は、やはりだいぶ違いがあるだろうけど、その相違を、東京の村人から「故郷があっていいですよね」なんて言われると、やはり困る。リリー・フランキーの『東京タワー』を、何度読んでも分からないと、東京生まれの人から主張されても、私は返答に窮する素振りをするのみである。

 私事だが、私の叔父が死んだ。映画評論家水野晴郎の逝去と同じ日に、同じ映画業界にいた叔父は、亡くなった。六本木のオシャレな高級クラブに客として来ていた時、ピアノ奏者が欠勤したということで、音大出の元音楽教師と知ったクラブのオーナーが頼み、さらりとアカペラで口ずさみながら演奏をこなす叔父だった。数多いる親戚の中、北九州から東京に出た人間は、叔父と私しかいなかった。子供の頃から近寄りがたく、上京後も年に一度しか会わなかった「東京の叔父さん」は、いつも紳士かつ洒脱だった。私にとっては、いつでも雲つかむ存在だったが、結局、距離が縮まることなく、別れることになった。  

「東京の叔父さん」が本当の意味で「東京の都会人」だったかどうかは、もう確かめることはできないが、彼は北九州の親戚に自らのことを吹聴することなく死んでいった(今も親戚は、彼が映画業界で果たした仕事の中身を一切知らない)。借金を重ね二度離婚した晩年の彼のことを実業に生きる北九州の親戚は、「惨めだった」と言いつつも、深く悲しんでいる。
 
 私は「東京の叔父さん」が自慢だった。彼以上にオシャレで上品で芸のある男性を知らなかったからだ。でも、誰にもそのことを言わなかった(何人かには言ったかな……?)。もう、死んじゃったから、せめてこの場で自慢させてもらいます。男からも女からも、「ちょいモテオヤジ」どころじゃなかったんです、ホントに……。

「時折、顔が眉毛に見える」とパートナーの池田に言われる私には、東京の都会人も、東京の叔父さんも、共に遠い存在である。遠い存在であるが故に、嫉妬も憧れもするし、東京の村人に反感と諦めも感じる。まだまだ東京にいる他無い以上、こじれやねじれを嵩じさせることなく、生きていくほかない。

 イデオロギーに依ることなく、また俗情とも結託することなく、ただ映画と芸術に生きた東京の叔父さんを、今日だけは、ゆっくりと悼みたいと思います。

  

日本共産党と秋葉原の「絶望」

 昨日、『ロスジェネ』の編集長浅尾大輔氏に会った。『ロスジェネ』売れてるそうである。私も読んだが、平易に書かれてあり「左翼初心者」にも読みやすいかもしれない(でも表紙と装丁はどうにかならんのかね…)。

 非共産党系左翼との繋がりが多かった私にとって、ちゃんとした(?)日本共産党の人と、1時間半という短い時間だったが、政治と文学、運動論、日本社会の諸々について話し合ったのは実は初めての経験だった。浅尾氏自身、涙もろく相当のロマンチストだと思うが、日本共産党にしては珍しく(失礼!)人間的に信頼できる性質の持ち主だと感じた。詳細は、来月号の『実話ナックルズ』で報告したい。

 インタビューの最後に、秋葉原の事件について少し話をした。絶望の末の自爆をどのように捉え対応していくのか、今後、左翼を名乗る人間に突きつけられる課題がまた増えた。左派の微増で喜んでいる場合じゃあない。

 その後、某週刊誌編集者Dと歌舞伎町へ。秋葉原の企画をやろうと盛り上がったが、どうなることやら。

「暴力団」を名乗り、短絡的というにはあまりに直結的に秋葉原に特攻していった一派遣社員加藤某は、今でもこの社会のいたる所で息詰まりながらもなんとか棲息しているのだ。赤木智弘(名の音が同じ赤木智弘が「彼」を自分の分身だと思うのかどうか。赤木の苦悩は絶している)のいう「戦争」かもしれない事態の勃発に、「絶望」してる振りをする輩もいるが、それでは被害者にたいする何の哀悼にもならない。加藤某が、自爆の前に「日本共産党」やその他派遣社員のための組合の存在を知っていたら、という仮定を想像しても、それも何の哀悼にもならないのだけど。

 ともかく、浅尾氏が「一生所属していきたい」という「今」の日本共産党という存在を、どのように考えたらいいのか。正直、相当「エ、エェー!」って感じだが、浅尾氏という一個人と話したことにより、ひとまず保留だな、と思ってしまった。


中国の「遼寧女」と秋葉原の「通り魔」

 中国では四川地震の国家的盛り上がりに水を指す女が現れている。「遼寧女」と呼称される相当ヤバイ女なのだが、私のコメントよりも、この名前でググッて一見することをお奨めする。

「遼寧女」は沢本あすかよりもヤバイなとと思っていたら、その沢本あすかの秋葉原で周知の事件の発生である。不満の爆発と自爆が起こる場所には衆目が集まるが、秋葉原があるカルチャーとマーケットの限界に来ていたのは確かだった。何しろタダでストリップ(的なもの)が見られる場所は世界広しといえども秋葉原一つしかなかったのだから。

 秋葉原に来れば何とかなる、と思って来たのに何もならなかった人間も確かに存在する。限界点において満たされなかった人間の最後が周知の行為だとしたら、やはり街の許容量を超えているのである(当たり前か)。

 秋葉原を実行に地に選んだということは、極めて象徴的であるが、それは実体もある程度見えるほどに明示的である。

 歌舞伎町の本が終了したら秋葉原の取材を開始するつもりだったが、周知の事件の影響で、かの地で権力と市民の妥協が避けられなくなりそうだ。90年代後半の渋谷を継ぐ2000年代後半の魔都としての秋葉原にも、限界が来たのかもしれない。 


洞爺湖サミット前の大掃除!?

 二つの中国人マフィアグループ、池袋と「大偉」グループの摘発は、洞爺湖サミット前の地ならしといった側面もあったようだ。外国からの要人が多数入国する真っ最中に、不良中国人に首都を荒らされてはタマランということだろう。しかし、それにしては大した成果が上がっていない。肝心の大偉は、もう4ヶ月も前から中国本土に身をかわしていたというし、この摘発は多分にアドバルーンの要素が強かったのかもしれない(ただし、当分の間大偉は日本に入国できないという結果は引き出したようである)。

 この数年間、暴力団やマフィアといったアンダーグラウンドの人間たちを取材してきて、いろいろと分かってきたことがある。その一つが、警察と彼らの関係である。

 暴力団やマフィア、そして覚醒剤などの違法物品の取り引きを、根絶できないことを最も理解しているのは現場の警察官である。次から次へと沸いて出てくるこれらを根絶するのではなく、なんとか操作しようと考えているのが、もっと上の人間たちの考えていることだろう。FBIと後藤組組長の取り引きなどは、その類の最高レベルのそれと言える。要するに取り引き、駆け引きによってある種の均衡状態が保たれているということだ。

 これらの取り引きは、現場レベルでの相当クールなリアリズムの結果であって、このことを私は頭ごなしに糾弾するほど諦念が低くはない。ただ、見聞きする限りで、「ああ、そうなのか」と思い、記述するだけだ。

 今までに末端の「マフィア」と呼ばれる若者たちを多数取材してきた。まっとうな職と慎ましやかで正当な尊厳を与えられることのない環境で、彼らは生きている。「生き方」や「べき論」などといったイデオロギーはやはり彼らには通用しない。「理解されるわけがない」という彼らの哀愁を、どこまで伝えることができるだろうか。彼らと話をする機会を持つたびに、「それが私の仕事です」とは、決まって言うようにしている。 

  









ヤクザ的な人の常套手段 その壱

 私が勝手に命名している「ヤクザ的な人」という言葉。ヤクザというと、いちおう組に所属している人を指すんだけど、今どきの組員は結構まともな組織人だったりしてむしろサラリーマンに近い。語源に近い「ヤクザ」はもはや組織に入れないんじゃなかろうかと私は感じたりしているんです(だから組織ヤクザ、なんて訳の分からない言葉も私は時折使ってしまう)。

 で、私のいう「ヤクザ的な人」というのは、組に所属している、いないに関わらず、「ヤクザだねぇ、アンタ」っていう人を指す緊急避難的な概念として提出しておるわけなんです、ハイ。以前に『ヤクザ的な人々に学ぶ、負けし知らずのススメ』(太田出版)という本を出しましたが、このブログでも「ヤクザ的な人」たちの面白おかしいエピソードをちょこちょこ紹介していこうと思います。

 組織に属さない(属せない)ヤクザ的な人の多くがついってやしまうことの一つが、自己紹介の時に名刺コレクションを出すことだ。切手収集のように、いろんな暴力団組織の組員の名刺をこれでもか、といった具合に保管している。
「この人は、あの時に会った。あ、この人は今偉くなってるけど、以前オレが世話してやったこともある。ああ、この人はぁ、アレだねぇ。ダメんなっちゃった」
 なんで初対面の私にこんなもの見せるのか謎だけど、私が「いやぁ、凄いっすね」なんて言わざるをえないもんだから、どんどん調子に乗ってくるわけだ。
 寄る辺ない生活をしているわけだから、デッカイ組織の看板を精神的に頼ってしまうの仕方ないかもしれない。今どきの組織ヤクザは、ちょっと名刺を出しただけで「恐喝」「脅迫」になってしまうから、信用のできない人間にはあんまり名刺を出したがらないんだけど、組織に属していないヤクザ的な人たちは逆に、自分と関係ないはずの組織の方々の名刺を、これ見よがしに自慢する。

 でも、当然のことながら、効力はほとんどゼロに近い。というより、更にその人の貫目を落としてしまう。そのことに気づかないヤクザ的な人っていうのは、とっても愚かだ。だけど、まあ、憎めない。というより憎むほどの狡猾さを持ち合わせていないと言った方がいい。  
 
 本当にずる賢い詐欺師は、ちょっとやそっとでは詐欺師とはわからないものだ。だから、組織の名刺をこれ見よがしに出してしまうヤクザ的な人々は、絶対アンパイ領域に属している。

 あぁ! キレが悪い文章になってしまったい!。もう、外に行かねばならない。

 ということで、ここでオチマイになってしまいますが、ブログにノリノリの私は、「ヤクザ的な人々の面白エピソード集」を勝手に不定期連載いたします。

 いやぁ、ブログって本当に適当でいいのが素晴らしい。こんな終わり方でいいのかっていうところで、締め切ってもいいんですって、やっぱりほ(以下略)。











労働組合と橋下知事

 大阪府の橋下知事と労組が争っている。

「橋下知事と労組が団体交渉 350億円の人件費削減案で (1/2ページ)

 「4人の子供がおり生活が破壊される」「退職金を見込んでマンションを買ったのに」…。大阪府が提示した平成20年度の総額約350億円の人件費削減案について、職員が加盟する府労働組合連合会(府労連)と橋下徹知事による団体交渉が2日行われ、出席した一般組合員から厳しい意見が相次いだ。橋下知事は「内容が厳しいことは承知しており、緊急避難的でやむを得ない状況」と協力を求めたが、府労連側は「6月5日に示される大阪維新プログラムで正当な判断をしてほしい」と強く訴えた。

http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080602/lcl0806021158001-n1.htm」

 
 大阪府職員の給料がどれくらいなのか正確には分からないけど、「管理職について12~16%、非管理職について4~10%の基本給削減や一般職の退職手当5%カットなど」程度の削減で「子ども四人」の生活が一気に苦境に陥るものなのだろうか(相当お気の毒ではあるが)、とは思ってしまう。労働組合が簡単に賃金カットを「はい、そうですか」と言ってしまってはイカンだろうけど、やはり、大方の人は橋下知事側に付いてしまうんじゃないだろうか。

 契約社員やフリーターなどの労働環境を守る「フリーターユニオン」などは、「今」の問題に答えうる、または将来型の労働組合運動となり得ると私は思っているが、「既得権益保持」だけにしがみつく、「団塊オヤジ型労働組合」(と私は勝手に命名)に関しては極めて冷淡な態度になってしまう。私のいちおう所属する出版界では、大手出版社の40代以上の社員となると年収1500万とかよく聞くんだけど、この人たちの給料をカットすることはほとんど不可能らしい(若手社員がこのレベルに行くことはないだろう)ので、橋下知事のリーダーシップをちょっぴり応援したくなってしまった次第だ。赤木智弘が言うように、バブル崩壊など団塊世代のツケを団塊ジュニア(ポストバブル)世代に押し付けられて「はい、そうですか」とはやっぱり言えないわけだ。

 フリーライターにもどうやら労組があるらしいんだけど、以前私も誘われたことがあるが、お断りした覚えがある。その時は「フリーライターって存在は、相当ふざけた存在であって(いやマジで)、詐欺師か仙人かダメコミュニストみたいなものであって、火付け盗賊の類がまともな労働者と言えるのかどうか。労組があったり、組合に入る人がいてもいいとは思うけど、僕の場合、更にダメになっちゃいそうで。それだったら、他のちゃんとした職場を探すべきなんじゃなかろうか」と言ったように思うけど、ただ、原稿料は上げて欲しいよね。原稿料が高いところもあるんだけど、コンスタントにそこで書くにはなかなかって感じですな。まあ、自業自得と半分以上は観念してはいるんだけど。

 でも、一般の労働者の労働環境を守る労働組合は、絶対に支持したい。特に団塊ジュニア世代のそれは。彼らの運動が強くなっていくことで、「団塊オヤジ型労組」の問題も解決されていけばいいな、と今のところ考えています。


 




プロフィール

小野登志郎

Author:小野登志郎
職業 ノンフィクション・ライター。ハードボイルドに疲れてきた三十路後半男。枯れていくばかりの人生を楽しむことにします。

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